独坐大雄峯
都会の夜だから、星はほとんど見えない。まして、今夜は新月。ひんやりとした乾いた秋の風が頬を撫でる。
みゆとうーにゃんは、新月の夜、マンションの屋上に上がって、周りを見渡しながらおしゃべりをするのが習慣だ。
「きもちいいね、うーにゃん」
「うん」
うーにゃんは、手すりの上に乗り、広大な森のシルエットに魅入っている。
新月の夜に伐採した木を使うと火事にならないし虫も食わないと聞いたことがある。新月は命をリセットし、強くする効果があるのかもしれない。そう思い込んで、毎月みゆはうーにゃんを連れて屋上に上がっている。
「まだ行ったことのない土地を旅して、いろいろ体験するのも面白いけど、日常のなかにも心をリセットできることはたくさんあるんだよね」
「……うん?」
うーにゃんは、上の空だ。
「ねえ、うーにゃん、どうしたの? さっきからわたしの話、ぜんぜん聞いてないじゃない」
「あ、ごめんごめん。あまりに気持ちよくて、ついうっとりしちゃった」
「こうして夜空の下にいると、うーにゃんがうちに来た日のことを思いだすよ。うーにゃん、捨てられていたんだよね。片手に載るほどガリガリに痩せて」
「なんとなく覚えている、その日のこと。みゆと目が合って、あ、この子に訴えれば助けてくれるって思ったことも」
「パパが拾っちゃダメって言ってたのを、みゆが強引に拾い上げたんだから。うーにゃんの命の恩人だと思わない?」
「うん、みゆには感謝してるよ」
「捨てられていたネコが、なんだか難しい言葉を覚えて、いまじゃ優雅な暮らし。いったい、世の中どうなっているんだろうね。それに比べて、わたしの方はあくせくと仕事ばかり。奇跡でも起きて、玉の輿に乗れないかなって思っちゃう」
「みゆ、もう奇跡は起きてるよ」
「奇跡なんかぜんぜん起きたことないよ」
「ほんとうは軌跡が起きたからこうして生きているのに、それを忘れちゃいけないよ。独坐大雄峯って聞いたことある?」
「ドクザダイユウホウ? そんな難しい言葉、知るわけないじゃん」
「ずっと昔、あるお坊さんに『いったいなにが奇跡なのか』と質問されたもう一人のお坊さんが『独坐大雄峯』と答えたの。ひとりでこの高い山の峰に座って、今この瞬間、生きていることが奇跡で、とてもありがたいことだって答えたんだよ」
「ふーん、ここはマンションの屋上だよ。山じゃない」
「そういう話じゃないよ。場所の話じゃない。今、ここに生きているというのが奇跡みたいなものだってこと。宝クジに100回くらい連続で当たるより少ない確率をくぐり抜けて、この世に生まれてきたってこと。みゆが生まれてきたことによって、けっきょく生まれてこなかった人が数えきれないほどいるんだよ。何十兆人とか、そんなレベルじゃない。それって奇跡でしょう?」
「ふ〜ん、たしかにね」
みゆは、思いっきり深呼吸する。それだけで充電されたように感じた。
そして、ふと思った。どうして、ここにいるのだろう? なんで生まれてきたんだろう? 眠っている時も心臓は勝手に動いているし、風邪をひけば熱が上がって菌をやっつけてくれる。体温が上がれば汗をかいて熱を放出し、寒くなれば体が縮んで熱を逃さないようにする。へんな物を吸うとくしゃみをして外に出し、目に埃が入れば涙で流す。ぜんぶ、だれかが勝手にやってくれる。自分がやっているわけじゃない。
だとすると、いったいだれが自分を動かしているのかな?
──なにかに生かされている!
突如、雲間から太陽が顔を現したかのように、ひらめきを得た。具体的にどういうことかわからないが、うーにゃんの言うとおり、自分は奇跡によってこの世に生きているということがなんとなくわかった。
そう考えると、仕事でのちょっとしたトラブルなんか、ちっぽけなものに思えてきた。
──独坐大雄峯かぁ。ほんとにそうなんだね。
ふと、横を見ると、うーにゃんは手すりの上で静かに寝息をたてて眠っていた。
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