行住坐臥
「ただいまぁ」
深夜、みゆが帰宅した。
「遅かったね」とうーにゃん。
「友だちに誘われて、セミナーに行ってきた。それより、なにか食べるものない?」
みゆは冷蔵庫を開け、夕食の残り物を取り出した。最近、売上が減っているため、食費を切り詰めているという。
「どんなセミナーだったの?」
「簡単にいえば、自己啓発セミナーだね。朝からずっとだったから疲れたよ」
「自己啓発セミナーってどんなことするの?」
「いろいろだよ。部屋を暗くして、中島みゆきの曲を聞いてから誰かと一対一になって自分の生い立ちを言い合うとか。満たされなかった思いとかコンプレックスみたいなものとか、とにかく全部吐き出して相手に聞いてもらう。そのうち、泣き始める人もいて、ちょっと気持ち悪かった。200人くらい参加していたからね」
「みゆはどうだったの?」
「ん? だって、わたしはあまり悩み、ないもの」
「そうだね。パパにも、おまえは悩んだことあるのかって訊かれていたものね」
「ちょっとは悩んだことあるよ。パパは乙女心をわかっていないからね」
「でも、その血を引いているんだよね、みゆは」
「複雑な気持ちだね、そう聞くと」
「で、セミナーの話」
「たしかにいいことばかり言っていたし、なるほどねっていう話が多いんだけど、うさんくさいというかさ、次のコースにも参加しない人は前向きじゃないみたいな雰囲気をつくっているんだよね。友だちをたくさん紹介しないといけない雰囲気もあるし。それにね、トレーナーはみんな以前セミナーに参加した人なんだよ。それって、巧妙な手口だよね」
「ははーん、友だちや仕事関係の人に誘われると断れない日本人の特徴をうまく利用しているね。しかも、会場に行ったらみんな前向きで、次に進まない人はダメな人間扱いされる。上級コースを終了したら、こんどは人を指導するのが研修だと言ってタダ働きさせる。新興宗教みたいだね」
「でもさ、面白いのは、みんなその会場を出たら、あっという間にふつうの状態に戻ってる。通りにゴミを捨てたり、歩きスマホをしたり」
「劇場型だね。劇場にいるときだけ別の人間になりきり、外へ出たらいつもの自分に戻る」
「うん、そんな感じ」
「それよりも重要なのは、ふだんの生活が自分をつくっていくという意識だよ。自己啓発セミナーなんかで簡単に変わろうとするから足元見られて利用される」
「わたしね、研修を受けながら計算しちゃった。一人3万円だから、しめて600万円なり。ボロいよね。うーにゃんなら、どういう方法で自己啓発すればいいってアドバイスする?」
「日々の行いを正すこと。それしかないよ。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)と言ってね、わざわざ座禅とかしなくても、日々の一挙手一投足が修業だと心に刻んでていねいに生きる。それがいちばんの近道だと思うよ。そういうことを心がけて実践していれば、必ず同じような波長の人と出会う。そして互いに感化し合う。それが原則中の原則だよ」
「うーにゃん先生ならそう言うと思っていた。だから、次のコースはパスしたよ。友だちはしつこく誘ってきたけどね。それでも断ったから、なんとなく気まずい感じで別れちゃった」
「いいんじゃない。それっきりになったとしても、それまでの関係だったんだよ」
「そう思う。だって彼女、わたしのことを思って言っているというより、自分の成績になるから言っているというのがミエミエなんだもの」
「最近、そういう話が多くてたいへんだね、ニンゲンは」
「うん、案外ネコの方が気楽かも」
と、そのとき、ドアが開き、パパの顔が現れた。
「え? オレの血を引いていることが誇らしいって?」
どうやらドアの近くで聞き耳をたてていたようだが、肝心のところは聞き違えているパパであった。
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