下載清風
「ったく! どっちもどっちなんだよ。世の中には生きたくても生きられない人がいるっていうのに……。そんなに死にたいやつはとっとと死んじまえ!」
パパは新聞を折りたたみながら苛立たしそうに悪態をつき、席をたった。
みゆとうーにゃんは顔を見合わせた。
「気持ちはわかるけど、問題発言だよね。この前も、死ぬまでに一度は肥満になってみたいもんだとか、不眠症の人がうらやましいとか言ってたし……。実際にそういう人が聞いたらどんな思いをするか」
みゆはそうつぶやきながら新聞を開いた。まだ、あの事件が大きく報道されている。自殺願望者を次々と殺害した座間の猟奇殺人事件だ。
「ねえ、うーにゃん。わたしもたいへんだなあって思うことはたくさんあるけど、死にたいと思ったことは一度もないよ。どうして死にたいと思うんだろうね」
そう聞かれて、うーにゃんははたと困った。そもそもネコには自殺という概念がない。もっと言えば、悩みもない。知恵と知識をもってしまったうーにゃんは多少の悩みがあるが、ほとんどのネコはあっけらかーのかー。苛酷な現実があっても、それを受け入れてその日その日を生きるだけだ。
「うーたちネコから見ると、ニンゲンは重たい荷物を背負い過ぎていると思う。だからこそ繁栄したんだと思うけど、要らない荷物まで背負い続けているとしたら、やっぱり考えものだよね」
「要らない荷物ってなに?」
「見栄とか妬みとか社会や家庭での役割だとか……。誰かが意図してつくった常識に縛られたり、お金のことで悩んだり……。とにかくいっぱいあるよね」
「たしかに、要らないものばかりかも。でも、それはわかっていても、それから逃れられないというのも事実じゃない?」
「まあ、それはそうなんだけどね……、下載清風っていうかさ……」
「アサイセイフウ?」
「うん、カサイじゃなくてアサイ。載せている物を下ろすと軽々しくなって清々しい風が通りすぎていくということ。たとえば、小さな舟に荷物をたくさん積んでいたら、沈みそうになるでしょう? でも、荷物をぜんぶ下ろしたら軽くなる」
「それはわかるけど、どうやって下ろすの?」
「仕事も人間関係も自分の役割もいったん放棄しちゃう。一週間くらい。その間、ひたすらなにもしないでネコのようにボーッとするの」
「わたしもそうしたい時があるわ」
「でもね、ここが肝心なんだけど、その間、自分を受け止めて支えてくれる人がいるってことが条件なの。話を聞いてくれる人。場合によっては最小限の助けをしてくれる人」
「たとえば、どんな人?」
「それはいろいろだよ。家族でも恋人でも友人でも同僚でも上司でもだれでもいい。その人がなにかをしてくれなくても、話を聞いてくれるだけでもいい。そういう人の替わりをSNSで埋めようとするけど、それが落とし穴なんだよ」
「わたしなら真っ先にうーにゃん先生かな」
「でもね、20年近く生きてきて、そういう人がひとりもいないとしたら、それまでの人生がまちがっていたということ。原因はひとつやふたつではないと思うけど、そうならないために勉強する必要があるんだよ」
「たとえばどんな勉強?」
「社会の中でいい人間関係を築くための基礎。ほんとうはね、そういうのってあえて勉強なんかしなくても、家庭のなかで親や祖父母が躾をしてくれる。でも、今は親も未熟だからね。そんなこと期待できないでしょう? 学校の先生だって教科書に書いてあることは教えられても、人間教育はできない。人の心に関わるのはいけないとか言っちゃって」
「あ、それ、パパが死ぬほど嫌いな日教組でしょう?」
「そう(笑)。でも、ニンゲンには素晴らしい遺産がある。先人たちの知恵の結晶が。ずっと読み継がれている書物はだいたいそうだよ。『論語』とか」
「論語って、あの道徳っぽいやつ?」
「いまから2500年も前に生きた孔子の言葉や行いを弟子たちがまとめたものだけど、現代にも通用するものばかりだよ。家族も含めて、あらゆる人間関係が円滑にいくための知恵の結晶といってもいい。それをきちんと学んだら、孤立することはぜったいにありえない。うーも一度読んだことがあるけど、よくもここまでニンゲンという生き物を観察しているなあって感心するくらい」
「そういえば、去年だったか、パパがこれ読みなさいって本を送ってきたことがあったわ。たしか『論語の一言』という本だったと思う」
「それ、パパのお師匠さんが書いた本ね」
「もう一回きちんと読んでみよう」
「ひとつ頭に入れておいた方がいいと思うんだけど、いい薬は毒にもなる可能性を含んでいる。論語とかって、使い方によっては為政者や立場が上の人が悪用できるんだ。歴史的にもそういう事例はたくさんあるしね。それに、子供の頃に過剰にすり込まれると、トラウマになってしまうこともあるから、そういうことを意識しながら活用すればいいんじゃない?」
「そうか、まずは論語を学んで人間の基礎をつくり、行き詰ったときは下載清風ね。こんど、友だちに相談されたらそう言ってあげよう。わたしの株が上がるのまちがいなしだわ」
うーにゃん先生流マインドフルネス
米アップル社創業者、スティーブ・ジョブズが傾倒していたことで、米国のビジネス界で脚光を浴びている禅。
宗教色を排し「マインドフルネス」としてアレンジされ、瞑想を通じて自身の深い心のあり様を見つめ、経営判断や、仕事のストレス緩和に活用されています。
その源流にある禅宗の文献からまとめられ、日本では多くの経営者により愛読されてきた禅語を「うーにゃん先生の禅語」として連載でお届けします。
情報過多の時代に生きる私たちが、シンプルに本質を判断し、次の一歩を後押ししてくれるヒントが必ず見つかるはずです。
ZEN(禅)マスターは
年齢:12才、性別:♀、猫種:キジトラ、名前:うーにゃん先生。
一見平凡な猫に思えて、その実、深い知識と教養を備えたうーにゃん先生とその飼主である「みゆ」との会話を通して、禅語の本質を平易に解き明かします。
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