全機現
「あら、たいへん。どうしたの? そんな真っ赤な顔をして」
帰宅したパパにママが声をかけた。
「どうしたもこうしたも、焼け死ぬかと思ったよ」
パパはそう言いながら、ジャケットを脱いだ。
「焼肉をしこたま食いながら、興奮状態の連中が雄叫びをあげるのをずっと聞いてた。電気ストーブを抱いているような感じだったよ」
「パパ、きょうはKさんがやってるサムライ塾の卒塾式に招かれてたんだよね」
「おー、みゆか。最近、顔見せなかったな。家出でもしたのかと思ったぞ」
「それならもっと心配そうな顔をしてよ。娘のこと、心配じゃないの?」
「おまえのことは心配するだけ損だ。まったくたくましいヤツだからな」
そのひとことを聞いて、うーにゃんが吹き出した。
「なんだ、うーにゃんもいたのか。あいかわらず食っちゃ寝の生活なんだろう? 羨ましい限りだよ」
うーにゃんは反論したかった。みゆの人生相談を担当しているだけでもけっこうたいへんなのだ。それだけで食事代くらいの価値はあると思っている。
「そんなことよりさ、そのサムライ塾ってなんなの?」
「なんでもKさんが世界に通用する人材を育てるって志をもっててね、体育会系のやつらに理論武装と熱い情熱を叩き込むんだそうだ。卒塾式の名前が全機現っていうんだからピリピリくるだろ?」
「ニャーオ」
思わずうーにゃんが鳴いた。どうやら、うーにゃんはその言葉に反応して、ネコ本来の鳴き声になってしまったようだ。
「やだあ、うーにゃん。ネコみたい」
「……あの、うーはネコなんだけど」
「忘れてた!」
みゆが頓狂な声で言った。気楽なもんである。
「学びの区切りに全機現という言葉を使うのはすごいと思う」
うーにゃんが感心した面持ちで言う。
「ゼンキゲンってなに?」
「そうか、みゆはわからないんだな。じゃあ、うーにゃん先生に教えてもらいなさい」
みゆは横目でうーにゃんを見た。うーにゃんよりモノを知らないということをまったく意に介していない。
「うーにゃん先生、どういう意味なの?」
うーにゃんはきちんとネコ座りして、瞑目した。
「例えば、今までコツコツと営業してきた結果が、今日のプレゼンで決まるとするじゃない? そのとき、みゆならどうする? 前の日に深酒とかする? 朝、寝坊する?」
「うんうん、なにが言いたいか、わかる」
「そうなの。その目標を成就させるために一瞬一瞬、真剣に向き合うでしょう? つまり、その時その時を生ききるということ。それが全機現。うーはそう思ってる」
「でも、ずっとそれじゃ疲れてしまうよ。時には休んだり、遊んだりしなきゃ」
「そう。休むのも遊ぶのも真剣にやるの」
「真剣に休む? 真剣に遊ぶのはまあわかるとして、真剣に休むって、どういうことかわからない」
ようやく体のほてりが引いたパパはソファに体全体をなげうち、みゆに言った。
「幼稚園くらいの子供を見てごらんよ。あれが全機現だ。遊ぶ時、100パーセント夢中になってるだろう? みゆだって子供の頃、夢中になってうーにゃんと鬼ごっこしてただろう? 昼寝する時も100パーセント夢中で眠ってた。あれこれとよけいな心配をしないで、全身全霊で眠っていた。あの感覚だよ」
「へ〜、難しそう。わたしはもう大人だから」
「そんなことはない。やろうと思えば、できる」
「どうやって?」
「なにごとも訓練だ。ひとつひとつの動作に意識する。意識することをクセにする。反対に、なんにも考えない時は心の中をからっぽにする。」
「えー? そんなのムリ。パパはできるの?」
「そりゃあ、できるさ。眠る時はなんにも考えず真剣に眠る。遊ぶ時も仕事の時も一心不乱に打ち込む。すぐにそうできない場合は、感謝するといい。こんなふうにできてありがたいなって。なんでも当たり前になってしまうとダメだ。そういうのを、馴れ合いという。毎日食べられるのが当たり前、仕事があるのが当たり前、家族がいるのが当たり前。そうやって自分の生活と馴れ合いになった先に、不満や心配ごとが待っている」
そう言って、パパは立ち上がり、シコを踏んだ。いまだにパパの行動は先が読めない。
「だよな、うーにゃん」
うーにゃんは丸い目をさらにまん丸にしてうなづいた。
「うん、そう思うよ、パパ。うーはニンゲンと比べて長生きできないから、よけいにそう思うよ。一日一日がありがたいって。うーを拾って育ててくれたみゆやママやパパに恩返しをしたいって、いつも思ってる」
「恩返しが寝ることか、おい。すごい恩返しがあったもんだな」
そう言って、パパは満面の笑みを浮かべながらうーにゃんの下腹を揉んだ。
うーにゃんは気持ちよさそうに喉をゴロゴロ鳴らした。うーにゃんは、可愛がられる時も「全機現」なのだ。
うーにゃん先生流マインドフルネス
米アップル社創業者、スティーブ・ジョブズが傾倒していたことで、米国のビジネス界で脚光を浴びている禅。
宗教色を排し「マインドフルネス」としてアレンジされ、瞑想を通じて自身の深い心のあり様を見つめ、経営判断や、仕事のストレス緩和に活用されています。
その源流にある禅宗の文献からまとめられ、日本では多くの経営者により愛読されてきた禅語を「うーにゃん先生の禅語」として連載でお届けします。
情報過多の時代に生きる私たちが、シンプルに本質を判断し、次の一歩を後押ししてくれるヒントが必ず見つかるはずです。
ZEN(禅)マスターは
年齢:12才、性別:♀、猫種:キジトラ、名前:うーにゃん先生。
一見平凡な猫に思えて、その実、深い知識と教養を備えたうーにゃん先生とその飼主である「みゆ」との会話を通して、禅語の本質を平易に解き明かします。
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