一翳在眼 空華乱墜
「だからって、傷口に塩をすり込むようなことは言わなくてもいいんじゃないの?」
隣の部屋から声が聞こえてきた。珍しくママが強い口調でパパをいさめている。
「食塩じゃなく、本物の塩をすり込めばいいじゃないか」
「そういう話じゃないでしょ!」
ママの一喝で静まり返った。
苦り切った表情でパパが部屋から出てきた。ドアの隙間からみゆとうーにゃんがベッドの上でゴロゴロしているのを見て、「なんだ、おまえらか」と言いながら通り過ぎたが、すぐに戻って来て、こう言った。
「ニュースで振り込め詐欺のことを報道していたから、騙されるやつがバカだって言ったんだけど、ママは人道主義的・理想主義的なことしか言わないんだ。うーにゃんはどう思う?」
「……いきなりそう訊かれても」
「そんな手口は10年以上前からあるわけだろ。これだけ情報が氾濫しているのに、いまだに騙されるのはあまりに無防備すぎるよ」
「そう言われてみればそうだけど、コツコツ貯めたお金を取られた人の気持ちも考えると……」
「それにだ、動機が不純だっての。孫の不祥事の後始末をつけるとか、お金が戻ってくるとか。そんな話ばっかりだろ」
「まあ……」
「騙される人が後を絶たないから、騙そうとするやつも減らない。みんながもっと用心すれば、悪人だってあきらめるだろうよ」
「ちがった悪事を働くかもしれないよ」と、うーにゃんはつぶやいた。
「安易に信じすぎるのはけっしていいことではない。疑心暗鬼のかたまりっていうのもどうかと思うけど、少しは大阪のおばちゃんを見習ったらどうだと言ってやりたいよ。『オレだけど』と言うと『どこのオレやねん』って突っ込むっていうんだからツワモノだよ。さすが、上下ヒョウ柄のパワーだ」
「大阪のおばちゃんが全員ヒョウ柄というわけじゃないと思うけど」
「それは言えてる。上下トラ模様もいるからな」
うーにゃんとみゆはプッと吹き出した。
「うーにゃん、振り込め詐欺に遭わないようにするために、なんか効果的な戒めの言葉ってないの?」とみゆが言った。リアリズムの観点でいえば、不毛なやりとりから脱却できる、有効な質問といえる。
「そうだね……」
うーにゃんは腕を組んで考え始めた。手首から先が「へ」の字に曲がった。それを見たらどんなに自制心を働かせても放おっておけない仕草だった。思わずみゆは肉球をプニュプニュと押した。
「一翳在眼 空華乱墜(いちえいまなこにあれば くうげらんついす)はどうかな? この8文字を頭の片隅に入れておくの」
「おー、それ、聞いたことがあるぞ」
「わたしは聞いたことがない」とみゆ。
「目の中にほんのちょっとのゴミが入っただけで痛くなって、目を瞑るといろんな色の光が乱舞して見えなくなるのと同じように、心の中にわずかでも邪(よこしま)な気持ちがあると、正しいことと悪いことの区別もつかなくなり、しまいには悪い誘惑に負けてしまう。企業の不祥事のほとんどはそういうことだと思うんだ」
「さすがはうーにゃん先生、いいこと言うじゃないか。そもそも孫が会社のお金を使い込んだらクビになるのが当たり前。そういうことを繰り返さないためにも、人生の先輩は本気で叱りつければいけない。身に覚えのないお金が還付されると聞いて騙されてしまうのは、心にやましいものがあるから。結局、自業自得なんだよ。だから、みゆもそういうことを肝に銘じて仕事をしなさい」
「えー? なんでこっちにくるわけ?」
「おまえはお金が好きだから心配して言っているんだ。お金にはもらっていいものとそうじゃないものがある。そこをわきまえないと、あとでとんだしっぺ返しを食うことになる」
「もらってはいけないお金ってなに?」
「自分がやったことの報酬として、妥当だと思えないものだよ。その差が大きければ大きいほど、あとになって悪いことが降りかかってくる。それから、お金は仕事の報酬であって、あとからついてくるもの。はじめにお金ありきじゃない。だから、まちがっても上場企業のように売上計画書を作ってはいけないよ。数字ありきの仕事をするようになってしまうし、ほんとうに大切なもの、仕事の本質が見えなくなってしまう。ひとつひとつの仕事をていねいに、誠実にやり遂げるんだ。そうすれば、その成果が独り歩きしておまえをPRしてくれる。つまり、仕事の成果こそが営業マンだ。そこんところを忘れるんじゃないぞ」
振り込め詐欺の話から、最後はみゆへの説教になったが、みゆは素直に聞いている。
パパはふと、うーにゃんを見て、つぶやいた。
「ったくネコは気楽なもんだよ。一円も持ってないくせにお大臣みたいな暮らしぶりだ」
感度のいいうーにゃんの耳には一言ももれることなく聞こえたが、うーにゃんは「猫耳東風」を決め込んだ。
うーにゃん先生流マインドフルネス
米アップル社創業者、スティーブ・ジョブズが傾倒していたことで、米国のビジネス界で脚光を浴びている禅。
宗教色を排し「マインドフルネス」としてアレンジされ、瞑想を通じて自身の深い心のあり様を見つめ、経営判断や、仕事のストレス緩和に活用されています。
その源流にある禅宗の文献からまとめられ、日本では多くの経営者により愛読されてきた禅語を「うーにゃん先生の禅語」として連載でお届けします。
情報過多の時代に生きる私たちが、シンプルに本質を判断し、次の一歩を後押ししてくれるヒントが必ず見つかるはずです。
ZEN(禅)マスターは
年齢:12才、性別:♀、猫種:キジトラ、名前:うーにゃん先生。
一見平凡な猫に思えて、その実、深い知識と教養を備えたうーにゃん先生とその飼主である「みゆ」との会話を通して、禅語の本質を平易に解き明かします。
この記事へのコメントはありません。