宇宙無双日乾坤只一人
「どうぞ、お履物はそのままで結構でございます」
料亭〈寺いち〉の仲居にそう言われ、パパとママとみゆは大理石の土間で靴を脱いだまま、式台にあがった。しかし、うーにゃんは式台の前で動きが止まっている。もとより履物を履いていないうーにゃんは、そのまま上がっていいものかどうか、迷っていたのだ。
「うーにゃん先生もそのままお上がりくださいませ」
仲居に導かれ、パパ、ママに続いてみゆとうーにゃんは客間に進んだ。銀座界隈でも新興の料亭で、店のたたずまい、料理や接待など、あらゆる面で新しい風を吹かせている。それだけに業界から反発も多いが、支配人の寺山修一は批判などどこ吹く風だ。
「まずはビールをもらおうか。中瓶を2本とグラスを3つ。それからこいつにはミルクをネコ肌にして小ぶりのボウルに1杯」
「ネコ肌……と申しますと?」
パパが注文をすると、仲居はきょとんとした表情で固まってしまった。
「ネコの体温は人間より1度か2度高いんですよ」
「か、かしこまりました」
「それから、支配人に聞けばわかるが、うーにゃん専用の器で出してください」
「はい。かしこまりました」
仲居はなにがなんだかわからないといった表情で、いそいそと客間を出ていった。
「パパ、ネコ肌なんて知っている人、いないよ」
みゆはパパに物申した。
「そうかな。人肌があるのだから、イノシシ肌とかブタ肌とかカエル肌なんかがあってもいいんじゃないか」
「じゃあ、トリ肌とかサメ肌はどうなの?」
「ほー、おもしろいこと言うね、わが娘は」
「でしょ?」
話の尽きない親子である。
ふと、みゆはパパの肩越しに目を留めた。掛け軸にじっと見入っている。宇宙無双日乾坤只一人と墨書されている。
「あれ、宇宙にそうじつなし けんこんただひとりって読むの?」
みゆは隣で正座しているうーにゃんに訊いた。
「ひとりでもいいけど、いちにんと読んでもいいよ」
「この世に同じ日はふたつとない。乾坤の意味はわからないけど、自分という人間も二人といないという感じ?」
「この場合の日は、太陽ととらえた方がいいと思うよ。ケンコンは乾坤一擲の乾坤で、天と地の間という意味だよ」
「まあ、すごいわね、みゆ。あんな難しい言葉の意味を自分で考えられるようになったのね。これもうーにゃん先生のおかげね」
ママはうーにゃんに笑顔を向けた。
「てへ」
うーにゃんは恥ずかしそうに舌をぺろっと出した。
「あれは寺山のやつが好きな言葉なんだよ」
「寺山って、ここの支配人さんのこと?」
「ああ。若い頃からあいつとはよく遊んだもんだよ。本名は寺山修一っていうんだ。やつの父親が寺山修司のファンでさ、それにあやかってつけられたらしい。でも、本人は迷惑だって、修一と変えてしまった」
「案外そんなものよね」
「やつは若い頃から金儲けが大好きで、金のことしか考えないような男だったんだけど、ある時、このままでいいのかって思ったらしい。先祖をたどると寺の住職だったということがわかって、それなら都会のなかのお寺のようなところをつくろうと思い立ってこの店をつくったってわけ。〈寺いち〉のいちは市場の市、つまり街の中という意味だよ。この店を始める時、やつはあの言葉を座右の銘にしたんだ。こんな広い世の中に自分という人間は一人しかいない。だから、自分にしかできないことをやるんだって。ま、覚悟を決めたわけだな」
「ひとつの言葉からいろいろな意味を引き出せるんだね」
「そうだよ、禅の言葉に正解はないから」
うーにゃんがみゆに答えた。
その時、扉が開いて、「しつれいします」という声とともに長い髪を後ろにまとめた男が入ってきた。
「噂をすればなんとやらだな」
男の人はパパと目を合わせると、「よ! ひさしぶりだな」と言い、その後、うーにゃんに向き直り、深々と頭を下げた。
「うーにゃん先生、本日はようこそおいでくださいました」
「おい寺山、おおげさなんだよ。クセになるからやめろよ」
寺山さんはパパの言うことは完全無視し、小脇にはさんだ色紙を差し出し、「先日、○○総理大臣がいらっしゃいまして、うーにゃん先生に贔屓にしていただいていることをお話したところ、サインをもらってほしいと頼まれた次第でして、これにサインをしていただけるとたいへんありがたいのですが。それと、さしつかえなければ、手形も押していただけますか」
そう言って、寺山さんはうやうやしく色紙と朱肉を差し出した。
うーにゃんは色紙に「うーにゃん」と揮毫し、その下に手形を押した。それから寺山さんは肉球にこびりついた朱肉をていねいに拭き取った。
「料亭の支配人だっていうのに、なにやってるんだおまえは」
「おまえはこんな素晴らしいネコと暮らせて、羨ましい限りだよ」
寺山さんが呵呵と笑うと、八の字眉の角度がよりいっそう屹立した。
うーにゃん先生流マインドフルネス
米アップル社創業者、スティーブ・ジョブズが傾倒していたことで、米国のビジネス界で脚光を浴びている禅。
宗教色を排し「マインドフルネス」としてアレンジされ、瞑想を通じて自身の深い心のあり様を見つめ、経営判断や、仕事のストレス緩和に活用されています。
その源流にある禅宗の文献からまとめられ、日本では多くの経営者により愛読されてきた禅語を「うーにゃん先生の禅語」として連載でお届けします。
情報過多の時代に生きる私たちが、シンプルに本質を判断し、次の一歩を後押ししてくれるヒントが必ず見つかるはずです。
ZEN(禅)マスターは
年齢:12才、性別:♀、猫種:キジトラ、名前:うーにゃん先生。
一見平凡な猫に思えて、その実、深い知識と教養を備えたうーにゃん先生とその飼主である「みゆ」との会話を通して、禅語の本質を平易に解き明かします。
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