順逆不二
今日はみゆも仕事で関わった、ある有名な栄養学者の講演会だ。うーにゃんも含め、家族総出で来ている。
「あ、あの、ペットはご遠慮いただいているのですが」
受付係の女性はうーにゃんを見ると、パパにそう言った。
「これはペットじゃない。うーにゃん先生だよ」
「……はあ?」
「禿山部長に了解をもらっているから、確認してみて」
パパがそう伝えると、女性は慌てて奥の方へ姿を消した。やがて頭がツルツルに磨き上げられた禿山部長が現れ、ほかの家族には見向きもせず、うーにゃんに頭を下げた。
「これはこれはうーにゃん先生、ようこそおいでくださいました。先だっては私どもの講演でお話しいただきまして、誠にありがとうございました。おかげさまで大変盛況でした」
禿山部長はうーにゃんを下にも置かないもてなしぶりで、幾度もペコペコと頭を下げている。
「ったく、あのハゲ部長、うーにゃんばかりにペコペコしやがって、みごとに俺たちを無視していたぞ」
「いいじゃないの。ちゃんと入れてもらえたんだから」
講演の後、みんなで近くのカフェに寄った。「テラス席はペット可」と張り紙がある。最近、こういう店が増えた。
「今日の話、良かったでしょう?」
みゆが言うと、皆、ふむふむと納得した。
「食べ物についてやたら詳しいし、仏教とからめているところがユニークだったな。栄養学も西洋のものから日本の民間伝承のものまでバランスよく学んでいる。彼女が引っ張りだこというのはわかるよ」
「実際、H先生の言う通りにすると、大病を患った人が治ってしまうみたい」
ひとしきり、みんなで感想を述べあった。
「H先生に直接話を聞く機会があったんだけど、若い頃はかなり苦労したみたいだよ」
「苦労知らずのみゆとはちがうな」
「きちんとした栄養学を学ぶために専門学校へ行ったんだけど、母子家庭でたいへんだったから新聞配達をしながら寮生活をしたんだって。毎朝3時起きだったらしいよ」
「この時代に若い女の人が新聞配達? それだけで覚悟が伝わってくるよな。今は仕事を選ばなければなんだってあるし、ラクしようと思えば、ラクな仕事はいっぱいあるから。苦労知らずのみゆとはちがうよな」
そう言ってパパは意味ありげにみゆを見た。
「それが今となってはいちばん生きているって言ってた。それだけ苦労して学校へ行っているんだから、がんばらなきゃと思って必死に勉強したらしいよ」
意味ありげなパパの視線になにも感じないみゆは、感動した面持ちでそう答えた。
「若い時の苦労は買ってでもしろって言うけど、ほんとうだよな、うーにゃん」
「そうだね。うーも生まれて数ヶ月の苦労があったから、そのあとの勉強は楽しくてしかたがなかった。H先生もそうなんだろうね」
「松下幸之助さんも言っているわね。『好景気よし、不景気さらによし』って。今日の日めくりカレンダーにそう書いてあったわよ」
ママは細かいところを見ている。
「順逆不二っていう言葉があるけど、まさしくその通りだよ」
「ジュンギャクフジ? パパ、なにそれ?」
「うーにゃん先生、みゆに説明してやってくれ」
「順境も逆境も同じということ。逆境の時って大変だと思うけど、あとになって振り返ると、それがあったから今があると思えることが多いでしょう? だから、良いことと悪いことの区別って、すぐにはつかないんだよ。長い目で見ないとね」
うーにゃんはそう説明したあと、ミルクをペチャペチャ舐めた。
「ご明答! H先生も新聞配達をしながら勉強した時期があったから、今こうして世の中の役に立つことができて、みんなから感謝されて充実した日々をおくることができている。もし、みんなと同じ家庭環境だったら、また違った道を歩んでいたかも」
「じゃあ、わたしみたいに、苦労知らずの人はどうすればいいの?」
さっきはスルーしたくせにと内心思いながら、パパは言った。
「そういう人は順境を活かせばいいんだよ」
「ふ〜ん……」
わかったような、わからないような表情をしたあと、みゆは「ま、いっかー」と言って笑った。みんなもつられて笑った。テーブルに笑いの渦ができた。じつにお気楽な家族である。
うーにゃん先生流マインドフルネス
米アップル社創業者、スティーブ・ジョブズが傾倒していたことで、米国のビジネス界で脚光を浴びている禅。
宗教色を排し「マインドフルネス」としてアレンジされ、瞑想を通じて自身の深い心のあり様を見つめ、経営判断や、仕事のストレス緩和に活用されています。
その源流にある禅宗の文献からまとめられ、日本では多くの経営者により愛読されてきた禅語を「うーにゃん先生の禅語」として連載でお届けします。
情報過多の時代に生きる私たちが、シンプルに本質を判断し、次の一歩を後押ししてくれるヒントが必ず見つかるはずです。
ZEN(禅)マスターは
年齢:12才、性別:♀、猫種:キジトラ、名前:うーにゃん先生。
一見平凡な猫に思えて、その実、深い知識と教養を備えたうーにゃん先生とその飼主である「みゆ」との会話を通して、禅語の本質を平易に解き明かします。
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