明々百草頭
「早く救急車を呼べ!」
パパが大慌てで叫んでいる。
突然、うーにゃんが動かなくなり、ほどなくして意識を失った。昨日まで元気だったのに、急な出来事だった。
「なにグズグズしてるんだ救急車は!」
「だって、いま呼んだばかりだから」
ママが困惑顔で答える。
「うーにゃんに万が一のことがあったら、ぜったいやつらを承知しないぞ。訴えてやる、呪ってやる」
「パパ、ちょっと静かにしていてくれる?」
みゆにたしなめられて、ようやくパパの大騒ぎは鎮まった。
うーにゃんは、救急車で近くの大学病院へ運ばれた。診察を受けている間、みゆとパパ、ママは診察室の外で待っている。
パパの顔は歪み、恐ろしい形相になっている。ときどき、うめき声をもらしたかと思うといきなり立ち上がり、ブツブツ言いながら歩き始める。すれちがう人たちは、オバケでも見るような表情でパパを避ける。
「大丈夫かな、パパ」
みゆが心配そうにつぶやく。
「うーにゃんも心配だけど、パパも心配ね」
「生きた心地がしないよ」
みゆは病室の扉とパパの方を見やり、大きくため息をついた。
やがて看護師がやってきて、「診察が終わりましたから、こちらにお入りください」と言った。
おずおずと病室に入ると、うーにゃんはベッドに横たわっていた。まだ意識はないようだ。腕に点滴がつながれている。
「先生、どうなんですか、うーにゃんは。まさか、まさかじゃないでしょうね。うーにゃんにもしものことがあったら、私たちはどうすればいいんですか」
「まあ、落ち着いてください。ただの過労です。いま、ブドウ糖を点滴していますから、そのうち回復します」
医師は冷静にそう言い、言葉を継いだ。
「うーにゃんさんはずいぶん無理なさったんじゃありませんか」
「このところ講演会とか会合続きだったし、連載の原稿も溜まっているし……」
みゆが答えた。
「ネコは人間のようにエネルギーのストックができませんから、急にバッテリー切れを起こすことがあるんです。もっとも、うーにゃんさんのように働きづめのネコはいませんから、ふつうは問題ないんですけれどね」
「だから言ったじゃない。仕事し過ぎだって。あなたがどんどん引き受けろって言うからよ」
ママはパパを睨んだ。ふだん、パパに意見を言うことはないが、ここぞとばかり口をとがらせた。
「そうだよ。うーにゃんがあんなに頑張って稼いでも、みんなパパが使っちゃうんだもの。かわいそうだよ、うーにゃん。動物虐待だよ」
みゆも同調する。パパは力なくうなだれ、視線を落とした。
「まあまあ、それくらいにして……」
絶妙なタイミングで医師が間をとりもった。
やがて小一時間ほど過ぎると、うーにゃんの意識が戻った。
「う、うーにゃん……」
パパはうーにゃんの枕元に顔を近づけ、嗚咽をもらす。
「悪かったな、うーにゃん」
うーにゃんはキョトンとしている。ようやくそこが病室だと気づき、今まで気を失っていたことを悟ったようだ。
「明々百草頭(めいめいたりひゃくそうとう)」
うーにゃんはかすれ声でそう言った。
「どうしたんだ、またわけのわからないことを言って」
「すべてに命が宿っているよ。気を失っている間、いろんなことがわかった。いろんな風景が現れたよ。木も花も虫も人間もネコも水も石も、み〜んな同じだよ。はっきり見えた。命が輝いているのが見えた。すごいよ、この世の中はすごいよ」
みゆはすかさず「禅語辞典」を開いた。
「えーと、明々ははっきりしていること。頭は強調の言葉。百草は百種類の草という意味ではなく、この世のあらゆる生き物、森羅万象、山河大地、瓦礫から塵芥に至るまでの一切……とある」
「うん、そうだよ、みゆ」
「どうやら、おまえはすごい世界を覗いてしまったみたいだな」
「うん、そうだよ、パパ」
「わたしも見てみたいわ」
「うん、見られるといいね、ママ」
うーにゃんはどこまでも禅を求めるネコである。
この記事へのコメントはありません。